身体は、知っている~私たちは「身体」を忘れていませんか?~

こんにちは。保健体育科の高木です。 今日は、じぶんみらい科で先日行った体育の授業を通して、私が考えたことをお伝えします。このブログが、皆さんに「自分の身体」について考えてもらうきっかけになればいいな、と思っています。 授業は、「人間の身体が持つ不思議な力」というテーマで行いました。その中で、現代社会に生きる私たちには、人間の進化の歴史を改めて長い視点で捉える感覚が必要なのではないか、と考えました。  

自分の意思で動かせるのは、ほんの一部分しかない

身体の中の臓器を、機械の部品のように捉えている人もいるかもしれません。しかし、私たちの身体は、そんなに単純なものではありません。 胃腸や筋肉、骨に至るまで、身体の各部分はそれぞれの仕組みで働き、常におびただしい量のメッセージをやりとりしています。 今、身体はどのような状態なのか。どこで、何が起こっているのか。身体の各部分が絶えず情報を共有し合っているのです。 脳からの指令を待つだけではなく、互いにコミュニケーションを取りながら、この身体を主体的に「運営」している。大昔に私たち人類が誕生したときから、身体はずっとそうしてきたのでしょう。ただ、私たちがそのことを知らなかっただけなのかもしれません。 そして、自分の意思で動かせる部位は、身体の中でもほんの一握りしかありません。  

人類の歴史を振り返ってみる

現代社会の便利な仕組みやIT技術は、人類の長い歴史から見ると、本当につい最近生まれたものにすぎません。 人類は、その歴史のほとんどを、野山を駆け巡りながら狩猟や採集をして暮らしてきました。農耕による営みでさえ、始まってからまだ1万年ほどです。 私たちの身体は、産業革命以後につくられたわけではありません。 生命が誕生してから、およそ38億年。その長い時間の中で綿々と受け継がれてきた、命のつながりの先端に、私たちはいます。 つまり、野山を駆け巡り、狩猟や採集をしていた祖先と、現代に生きる私たちは、基本的には同じ身体で生きているのです。 大きく変わったのは、身体そのものではなく、私たちを取り巻く環境や考え方のほうです。 自然から離れ、身体の存在を忘れたまま社会をつくっているのではないか。そのことに、私は疑問や危機感を覚えます。  

命は誰のものか?

「自分の命は、自分のもの」 以前の私は、そう思っていました。しかし、よくよく考えてみると、本当にそうなのだろうかと疑問を持つようになりました。 先ほどお話ししたように、自分の身体であっても、自分の意思で動かせるものはほんの一部しかありません。 心臓は、自分の意思で動かしているわけではありません。体温調節も、内臓の働きも、髪の毛が生えることも、自分の考えで行っているわけではありません。 よく言われることですが、この身体自体が一つの自然であり、一つの生態系なのかもしれません。 現代社会に生きる私たちの問題は、「所有する」という意識にあるのではないでしょうか。 自分の身体は自分のもの。この命は自分のもの。 しかし、考えてみれば、身体も命も、すべてを自分でつくったわけでも、どこかで買ったわけでもありません。 少なくとも、命は完全に「自分だけのもの」ではなさそうだと、私は考えています。  

心と身体は一体 ―― 心身相関

「心は、どこにあると思いますか?」 そう質問すると、多くの人が頭を指します。もちろん、それが間違いというわけではありません。 しかし、本来、人間の心と身体は一心同体です。切り離すことはできません。どこからが心で、どこからが身体なのか。そこには、はっきりとした区別がないように思います。 私たちは、あまりにも頭、つまり脳に偏って物事を見ているのではないでしょうか。 身体の声を聴くことを、忘れないほうがいい。 私は、そう強く感じています。  

人間は生き物であり、自然の一部

私たちの身体には、ホモ・サピエンスとしての約20万年の歴史、ヒトの仲間としての約700万年の歴史、そして生き物として積み重ねてきた、さらに長い歴史が刻まれています。 その歴史の中で培われた力を生かし、身体が発する声に耳を澄ませながら生活することが、今ほど重要になっている時代はないのではないでしょうか。 タンザニアでは、約360万年前の猿人が残したとされる足跡が見つかっています。 そこには、二足歩行をしていたことが分かる足跡だけでなく、やや大きな足跡と、小さな足跡が並んで歩いているように見えるものも残されています。 その様子から、親子や家族が一緒に歩く姿を思い浮かべる人もいるかもしれません。 一緒に食事をし、一緒に子どもを育て、仲間とおしゃべりをしながら生きていく。 それが、人間が生きることの基本なのではないでしょうか。 遠い祖先の時代から、私たちは家族や共同体とともに生きてきたのだと思います。  

「対話する」ということ

私たち京都芸術大学附属高等学校では、「対話型の学習」を教育の柱に据えています。 どれだけ社会が変わろうと、どれだけ科学技術が進歩しようと、人間の根本は変わらないのではないでしょうか。 だからこそ、他者と対話し、協働する姿勢が大切なのだと思います。社会で、そして世界で、生き生きと、たくましく生きていくために、対話は欠かせません。 現代社会に生きる私たちは、さまざまな対話の方法を手に入れました。 電話やメール、チャットがあり、異なる言語も瞬時に翻訳できるようになってきました。 こうした技術は、私たちが対話をさらに深めるために活用したいものです。異なる言語や習慣を持つ人々を含め、より多くの人と対話し、互いに理解し合うための力にしていきたいと考えています。 今、うまく話せなくても大丈夫です。 なぜなら、私たちの中には、遠い祖先から綿々と受け継がれてきた「対話する力」が、すでにあるからです。 もともと持っているその力を、これからみんなで掘り起こしていく。 皆さんと一緒に、さまざまな対話ができることを楽しみにしています。

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